シチリアのモンレアーレ大聖堂

グリエルモ二世は、この肥沃なコンカ・ドーロを見下ろす高台にモンレアーレ大聖堂を築いた。聖堂後陣の外観は、すでにパレルモ大聖堂で確認した幾何学的なアーチ模様の連続と交差を見てとることができる。一方で聖堂の内部は、壁の上部に旧約聖書、新約聖書の場面を描いた壮大なモザイクが展開している。総面積6340平米のモザイク画は圧巻と言うほかない。モザイク以外に、正面中央のブロンズ製の扉にも聖書の場面が丁寧に描き込まれている。扉は彫刻家ボナンノ・ピサーノによる1186年の作であり、場面のひとつにはイタリアの俗語が書き記されている。アカデミックなラテン語とは違う、当時の方言の一種であるが、こうした俗語が後のダンテの業績につながることを思うとき、中世における地域文化の懐の深さと広がりについてあらためて考えさせられる。
さて、身廊の円柱(とくに柱頭)をよく見ると、形状がわずかに異なっているものを見つけることができるが、この不揃いな円柱は実は古代建築から転用された材である。古代神殿をキリスト教聖堂に転用した例は、実際シチリアに数多く見られる。とはいえ、いったん隣接する修道院中庭に出てみると、円柱の数とヴァリエーションはもはや聖堂内部の比ではない。細身で小規模ではあるが、中庭を取り囲む回廊の円柱は228本を数える。柱頭には歳時記を思わせるような彫刻が施され、さらに柱身にはきらびやかなモザイクの細片が散りばめられており、一本ずつがそれぞれの個性とともにモンレアーレの地域性を表明するかのようである。
円柱の一本一本は実に多様な表現を纏いながらも、回廊全体としては落ち着きのある佇まいとなっている。回廊にせよ、大聖堂にせよ、建築の細部にはこだわりをもった装飾が散りばめられており、そこには必ずと言っていいほどなんらかの物語が潜んでいる。宗教的な教え、世俗的な遊び心、地域の伝統、建設や制作の努力…。おそらくこうした小さな物語の連鎖が、さらに広くパレルモ全体の建築や都市の物語につながってゆき、全体としてわれわれの目や心を楽しませてくれているのではないだろうか。ひとつの都市がいつまでも枯れることのない魅力を発し続けられる理由の一つは、そうした個々の物語が多種多様な文化に裏付けられているからであり、あらゆる時代の文化的蓄積のうえに成立しているからにほかならない。
[『星美学園短期大学 日伊総合研究所報』5号草稿の一部を抜粋]

恩師・鈴木博之

ここだけの話であるが、私が鈴木研究室に入ったのは建築の歴史をやろうと思ったからではなく、建築という分野でただ考え事がしたかったからである。今思えば、20代前半という時期は若さから来る内なる問題が自分のすべてであった。同時に、時代としてもちょっとした現代思想ブームがあったように思う。私が本郷に進学後、鈴木博之にはまったのは建築学科図書館でのことである。『建築の世紀末』は先生初の単著書であるが、私はこの序文に魅せられ、非常に短絡的ではあるがこの先生のもとで考え事をしようと思ったのである。16年前、私は思想家・鈴木博之に弟子入りしたのだった。
(...)修論を書き終えて、私は先生に先ほどとはまたちがった格言を授かっている。「泉鏡花を読め!」である。この言のこころは、あきらかに私の修論がガチガチの論文調で、お世辞にも麗しい文体ではなかったところに発している。だが、私は先生に相変わらず思想家としての姿を見ていたのであり、泉鏡花発言はちょっとしたカルチャー・ショックだった。私のなかで鈴木博之は、『建築の世紀末』でサルトルやヴァレリーを論じた思想家であり、『建築は兵士ではない』で現代建築を斬りまくっていた鋭敏な批評家であった。当然といえば当然なのだが、図書館で私がはまった鈴木博之はけっしてそのままの姿では私の前にいなかったのだろうと思う。すなわち、思想家・鈴木博之は、音楽評論家、文芸作家の顔も同時に持ち合わせており、とくに90年代においては、確実に東京論者としての役割を強めていた。
無知な私は、研究室に在籍してしばらくの間は、目の前の師を十数年前の著者として頑なに見ていたように思う。こうした先生の過去の足跡と、けっして歩みをとめることのない進行形の先生の距離を少しずつ埋めるように理解していったのが、私の研究室在籍期間だった。
[『UP』2010年1月号草稿の一部を抜粋]

リチャードソンの中世趣味、そして日本趣味

 リチャードソンの中世趣味が、東洋趣味や日本趣味、言うなれば当時アメリカのエキゾチシズムと同列に扱われるケースがあった。「ストーンハースト」のペイン邸はその最たる例だ。施主は、アメリカ独立宣言署名者の一人、ロバート・トリート・ペインの孫。姓名がまったく同じなのでたいへん紛らわしいが、孫のペインによって、ボストン郊外ウォルサムにつくられた別荘が、「ストーンハースト」のはじまりである。「ストーンハースト」とは、ペイン自身がこの地につけた名称で、“石の森”という意味である。郊外の緑豊かな丘上に、富豪のペインはわざわざ石の楽園をつくらせたのであった。
 最初、ペインの別荘はフランス風マンサード屋根をつけた端正でクラシックな様式の住宅だったが、これをリチャードソンに依頼し、自然の積極的な取り込み、ごつい野面石の強調に方向転換したのである。ファサードの妻面上部は、ニューイングランド地方の建築を特徴づけるシングル(こけら板)葺きとなっているが、やはり眼を引くのが南側のテラス、および、妻面下部を覆う野面石である。トリニティ教会と比べても、こちらのほうが断然素朴で田舎っぽい風情を持っている(...)。
 ただ、日本人にとってみれば、「ストーンハースト」のペイン邸は内部空間にこそ見るべき価値がある。一階のホール天井を見ると、短冊状に切り分けられた内側の全面に金箔が施されている。これを金箔張りの格天井の再現と言うと、多少大げさに聞こえるかもしれないが、あきらかに日本趣味をアレンジしたことはわかる。また、ホールの壁面に目をやれば、日本の家紋が装飾として写し取られ、やはり金色に輝いている。内部を案内してくれた研究員の方によれば、こうした日本趣味は世界中を旅行したペイン夫人が要望し実現したのではないかということであった。
[『経調レビュー』2012年3月号草稿の一部を抜粋]

オベリスクとヨーロッパ都市

ローマの街を歩いていると、大きな広場の中心に垂直のランドマークが建てられていることに気づく。(…)もともとエジプト神殿に付随していたオベリスクの大半が、現在、なぜ欧米の各都市に散在しているのだろうか。その象徴的な形の魅力か、長大な石材の価値か、あるいは、古代エジプトの持つ神秘性か、ときの権力者たちはオベリスクを戦利品として自国に持ち帰るようになった。その歴史はローマ時代にまで遡る。実際、現存する古代のオベリスクはローマに一番多く、13本ある。そのほとんどが、帝政期にもたらされたものである。だが、必ずしも広場の中核として据えられていたわけではない。オベリスクが都市広場の中核を担うようになったのは、16世紀後半からである。教皇シクトゥス5世は、カトリックの総本山ローマの教権を盤石なものとするため、ローマの都市再建を図ったのである。
この経緯で主要な広場が整備され、現在われわれが見るようにオベリスクが再設置されたのである。その最初のプロジェクトが、サン・ピエトロ広場のオベリスクだった。建築家ドメニコ・フォンターナがプロジェクトの任に当たり、1586年に据え付けが完了した。シクトゥス5世の命を受け、フォンターナがローマに再配置したオベリスクは、他にもポポロ広場、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂といったローマの要所を占める。以降、歴代の教皇の命によってオベリスクが都市景観にアクセントを添えるように置かれた。ナヴォーナ広場に建つオベリスクは、バロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによる泉水の中央にそびえている。古代エジプトの象徴であったオベリスクは、まったく異なる文脈のなかで、キリスト教都市ローマを彩ったのである(…)
[『積算資料』2010年7月号草稿の一部を抜粋]

フォーリング・ウォーター

(…)20世紀にはいると、ただ眺める人工滝ではなく、住環境としての滝というコンセプトが登場する。滝に近接する別荘という主題で、落水荘(フォーリング・ウォーター)を語らないわけにはいかないだろう。清流に覆いかぶさるコンクリート・スラブの積層は、近代建築を学んだ者にとってあまりにも有名である。同時に、その多くが行ってみたいと思いながら、なかなか行くことのできない作品でもある。なにしろ交通の便がないのだから。かくいう私も、落水荘詣でを果たせたのはついこの前のことだ。別荘はピッツバーグより車で1時間以上走った渓谷の中にあり、実際、周りには自然以外なにもない。ひたすら自然を満喫できる。季節が良いと最高だ。逆に、冬季は雪も深く、さらに交通の便が悪くなることだろう(現在、冬季は閉館となっている)。
アメリカ人が好きな建築作品第一位にランクされる落水荘は、当然ながらアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトによる中期の傑作である。デパート経営者の富豪、エドガー・カウフマンの別荘で、夏期を中心とした一年のうちのほんの一時を過ごすためにつくられた住宅である。究極に不便なのであり、だからこそ究極に自然と向き合うことができる。これが究極の贅沢というものなのだろう。
落水荘は想像以上に大きな別荘で、また、スラブの張り出しも想像以上にダイナミックであった。必然的に構造強度については竣工時から問題視され、オーナーがカウフマンから西ペンシルベニア自然環境保護団体に移った後も長らく検討が重ねられ、2002年にようやく構造補強工事を終えたところである。
あまり写真で目にしたことがなかったせいで興味深く思えたのが、別荘の滝側ではなく山側の部分である。こちらがエントランス・アプローチであり、そこには無骨なコンクリート梁が人の頭上ほどの高さに何本も走り、反対の岩壁に固定させられている(…)
[『積算資料』2010年6月号草稿の一部を抜粋]

ガウディ建築の骨っぽさ

骨格と表皮の乖離は、とりわけ鉄骨を多用する現代建築の宿命なのかもしれない。鉄骨構造のおかげで造形の自由度を高めた表皮、すなわち、カーテン・ウォールが出現したわけだが、いわばこれが骨格から表皮が切り離された瞬間だった。しかし、カーテン・ウォールがポピュラーになる以前に、両者の区別はそう単純ではない。組石造においては、柱も壁も構造であり、構造壁は骨でも皮でもあったと言える。では、柱はどうだろうか。柱は古来より構造要素として存在したが、空間を包む皮とまではいかない。だが、その構造的な身振りを強調し、自由な表皮に匹敵するほどの強烈な表現力を身につけることはあった。
こうしたなかで、わかりやすい実例はガウディのカサ・バトリョだろう。この都市住宅は、19世紀末に碁盤の目状に整備されたバルセロナ市街に位置する。強烈な個性のファサードは、街区が均質にできあがったからこそ必要とされたかのようだ。面白い偶然だが、ゲーリーが魚を連想させたがごとく、カサ・バトリョにも水のニュアンスが投影されている。竜もしくは魚の鱗のごときファサード上部、あるいは、珊瑚を連想させる色鮮やかなモザイク・タイル、深海の雰囲気を持つ中庭、貝の渦巻きや波のうねりを表現した室内の意匠など。もっとも、ガウディが持ち込んでいる水は、ゲーリーのように無国籍な水ではなく、あきらかに眼前の地中海である。
そして、こうしたトロピカルで活力にみなぎる地中海性に、グロテスクで“骨っぽい”柱が付加されているのは、一種のギャップである。二、三階の出窓部分に付けられた石造の柱は、上下、そして、中間部分に施された間接のような形態のせいで、どうしても骨を連想させる。かなり注意して見ると、柱の中間部分に植物の蔓や葉が彫られていることに気がつくのだが、これも遠目には間接の膨らみとくびれに見えてしまうのだからどうしようもない。そうすると、上階のバルコニーまで両目のついた頭蓋骨に見えてくる。たしかに、これを地中海的ファンタジーに近づけるために有機的な貝殻の造形と見ることもできるが、カサ・バトリョを訪れた人の目は十中八九、まずは“骨っぽい”柱に支配されるだろう。その後にバルコニーを見て、頭蓋骨を連想しない人がいるだろうか(…)
[『積算資料』2010年4月号草稿の一部を抜粋]

積み上がる造形をいかに表現するか

一般に高層ビルのデザインにヴァリエーションを出すのは難しいとされる。フロアの積層が、結局のところ起立する造形を逃れられないからだ。どんなにがんばっても最終的に塔状建築になるのはまずまちがいないわけで、この当たり前の事実からどこまで行けるかが勝負なのだ。ボディーに膨らみやくびれをつくったり、ど真ん中に穴を開けたり。上階をツイン・タワーにしたり、あるいは、連結させたり…。しかし、外形がどのようになろうとも、その内部でフロアが単純に積層している事実にはまったく変わりがない。高層ビルはフロア積層の必然である。
建築の歴史を辿れば、フロアの積層を外観の表現として確立したのが古典主義の様式であろう。ルネサンス時代のパラッツォ(大型の都市住宅)、たとえばフィレンツェのパラッツォ・ルチェッライを見れば、三層構成の外観はあきらかにフロアの積層を積極的に表現したものである。この建物はそもそも煉瓦造であるから、この壁面にわざわざ柱を表現する必要はないのだ。つまり、柱は装飾として意図的に表現されているのである。建物には一階から三階まで、ドリス式、イオニア式、コリント式による柱が順番に積み上げられている。この構成は古代ローマのコロッセウムに遡り、もっともどっしりとしたドリス式、少しほっそりとしたイオニア式、もっとも優雅とされるコリント式の順番で下から積層させられている。こうした性格づけは古代建築が再び脚光を浴びるルネサンス以後、すなわち古典主義の伝統のなかで疑いようのない原理・原則となり、三種の柱は古典主義建築におけるもっとも正統的な表現要素となったのである。
近代に入り、ルネサンス・パラッツォの構成を高層建築の美として捉え直したのが建築家ルイス・サリヴァンだ。今から一世紀ちょっと前、サリヴァンは高層建築を、基部・中間部・頂部の三層構造で捉えた。当時ヨーロッパでせいぜい五、六階建ての建物に用いられていた古典主義の様式を、未知の高層建築に応用してみせたサリヴァンの功績は大きい。古代ギリシアやローマにつながる古典主義は、基部から頂部までの要素を積層させ、全体を安定した調和美として見せることを旨とする。サリヴァンは中間部をある程度均質な積層外観とすることで、古典主義をあらゆる高さのビルに順応させることができた(…)
[『積算資料』2010年2月号草稿の一部を抜粋]

コーニス/フレーム論

薄型テレビや液晶ディスプレイが登場してからここ10数年のデザイン変遷を見ていると、画面を縁取るフレームが確実にその存在感を薄くしていることに気づく。このフレームは今のところ構造強度上ぎりぎりのところで残されているが、アニメーションに描かれる近未来のディスプレイになると、もはやフレームは存在せず、半透明の画面だけが宙に浮いたような形になっている。究極のミニマリズムが適用されれば、ディスプレイは画面のみに意味があり、周囲の縁取りは用なしというわけだ。
同じ現象を壁掛けの絵画に見ることもできよう。ルーブルやオルセーなど著名な美術館で見ることのできる名画の多くが、壮麗な装飾の額縁で縁取られている。けれども、いわゆる現代アートになると額縁は薄くシンプルになってゆき、最終的に消滅している場合も多い。絵画が額縁のなかにおとなしくおさまっていられない時代がモダンだとすれば、逆に、古典主義の時代は額縁におさめられた安定した世界を求めていたと言えよう。建築もしかりである。
実に、ルネサンス建築のファサードは安定した堅牢なフレームで囲まれている。下部は安定感のある石積み風、両側面は柱もしくは石積み装飾によって、上部はコーニス(装飾要素として、とくに「軒蛇腹」とも)と呼ばれる軒によっておさえられる。ローマにあるパラッツォ・ファルネーゼ(現在はフランス大使館として使用されている)は威風堂々たる建物で、広場からは実に安定感のあるフレームを備えたファサードを眺めることができる。三層構成のファサードの両端は、切石積みのように仕上げられているが、切石のひとつひとつを丁寧に見ると、一層目が一番大きく、二層、三層と徐々に小さくなってゆく。この安定感こそ古典主義が前提とする美に他ならない。
同様に最頂部のコーニスも、ファサードを安定的に見せるフレームとして欠かせない要素、まさに額縁の役割を担う。このことは、20世紀の近代建築がその存在を疎ましく思っていた事実に見て取れる(…)
[『積算資料』2010年3月号草稿の一部を抜粋]

建築論小史:ウィトルウィウスからポスト・モダンまで

ウィトルウィウスの建築論は、紀元前一世紀当時の建設に関する広範な知の集成でありながら、一建築家による理想的建築の指南書でもあった。ウィトルウィウスのあと長らく建築論は停滞するが、再び活気づいたのがルネサンス時代である。ウィトルウィウスの書に刺激を受けつつも、〈建築はかくあるべし〉という理念的の提言の側面が強くなり、古典主義という枠組みのなかで建築の理想があれこれと模索されるようになった。こうした理想追求はその後バロック時代まで続いてゆくが、それも18世紀に転機を迎える。啓蒙主義における批判的まなざしが、過去の建築的理想に対する疑念を本格化させたからである。
(…)こうして啓蒙主義以降の建築論は、基本的に過去の建築的誤謬を指摘することで、それに代わる建築的理想を提示することとなった。M.A.ロージエによるバロック建築批判は、「原始的な小屋」に建築の真のモデルを認めた結果であり、A.W.N.ピュージンによる古典主義批判は、構造を包み隠さないゴシック建築を真なる表現とした結果であった。A.ロースは文化的、経済的、倫理的観点から装飾を断罪し、同時代のアール・ヌーヴォー的造形を批判した。そして、ル・コルビュジエは過去の歴史的な様式をすべて否定すべく「マシン」を時代が従うべきモデルとした。W.グロピウスによる様式からの脱却も、世界共通の科学技術に依拠することで展望された(ここにグロピウスが唱えたのは「国際建築」であって、のちに歴史的文脈に回収される「国際様式」ではない)。20世紀後半になって、ル・コルビュジエやグロピウスらの主張が世界に浸透するや、今度はそのモダニズムが批判の的となる。R.ヴェンチューリは、モダニズムが強調していた「純粋」、「明快」、「整合」といったフレーズを、「複合」、「曖昧」、「対立」という対極の価値観で覆してみせた。また、C.ジェンクスが一般に広めた「ポスト・モダン」という用語も、モダニズムがもはや過去の産物であるという認識を典型的に示すものである。ポスト・モダンを標榜する建築論は、現在が近代のなしえた成果の延長上にあることを認めつつも、さまざまなレベルでモダニズム批判を展開したのであった。
[『近代建築論講義』草稿の一部を抜粋]

世界で一番高い石造建築

世界で一番高い石造建築をご存じだろうか。と言うと、たいていピラミッドとか、ゴシック聖堂とかいう答えが返ってくる。クフ王のピラミッドはあの時代にしては大きいが、146.6m。高いというより巨大なのだ。ゴシック建築で一番高いウルム大聖堂が161m。だが世界一ではない。
正解はワシントン記念塔。アメリカの首都計画の要に位置する巨大なオベリスク型の建造物である。高さ169m。ロバート・ミルズによる当初の案は、列柱が取り巻く古典主義神殿の中央に巨大なオベリスクが立ち上がるという奇妙な代物だった。1848年に着工されたが、後に資金難で工事が中断。1878年に足もとの神殿を廃し、単純なオベリスクとして工事が再開。そして1884年、頂部に1.5トンのピラミッド状大理石を据えて完成させられた。ピラミッドの最頂部は当時のレア・メタル、アルミの鋳物である。
ワシントン記念堂の内部には(当初は蒸気式だった)エレベーターが設置されていて、頂部ピラミッドの内側まで行くことができる。そこにはわずかに開けられたスリット状の小窓から、モールの向こう側に連邦議事堂、反対側にリンカーン・メモリアル、そして、計画都市ワシントンDCを一望することができる。エジプトのオベリスクはモノリス(一枚岩からなる石柱)であるが、世界一の石造建築はそれを模した記念塔であり、いわば中空の展望装置である。
では、ヨーロッパで一番高い石造建築をご存じだろうか。またもやウルム大聖堂ではない。たしかにゴシックは歴史的様式のなかで高さを強調するのにもっともふさわしい表現であるのだが、しかし、この正解がゴシックの根づかなかったイタリアにあるのだからおもしろい。トリノにあるモーレ・アントネッリアーナが、ヨーロッパで一番高い石造建築である。高さ167.5mのモーレ(イタリア語で巨大建築を意味する)はウルム大聖堂を凌ぎ、ヨーロッパで一番高い石造建築だ。設計者アレッサンドロ・アントネッリは生涯高さにこだわり続けた建築家である。
[『積算資料』2010年1月号草稿の一部を抜粋]

地域主義(リージョナリズム)とは?

第2次大戦後,ある動向が力をもつようになった.これは一元化した合理主義的な建築を見直そうとするもので,この合理主義に対するロマン主義的な反動の手続きは,主として地域的な要素に求められた.環境への融合,ゲニウス・ロキの尊崇,地域伝統への顧慮,感覚的要素の積極的な導入,そして無形式を標榜する建築…….いわゆる「リージョナリズム」である.このように「リージョナリズム」を戦後の建築潮流に張り付けるレッテルとして使用することはできるのだが,殊「リージョナリズム」と呼びうる姿勢に関しては,20世紀全体を通じて幅広く認められるものである.そこでは,それらが時代の前線に立ったか否かは問題にしていない.ただ程度の問題として,そして,認識の問題として,〈確かにモダニズムの傍らに「リージョナリズム」は存在し得た〉ということである.この意味において,前世紀からの影響を色濃く残す建築家はもちろん,今世紀初頭の革新的なモダニストの内面においてさえ垣間見ることができるのである.つまるところ,「リージョナリズム」は多様な建築観に基づき,合理主義の欠陥を補うようなあらゆるスローガンを含み,経験主義や表現主義の流れとその旨を共有する.この断面によって,20世紀建築全体を切ることは大いに刺激的なのではないだろうか.なぜなら,地域特有の建築や建築観を扱うことは,その多様性や独自性によって魅力的であるだけでなく,その主張に内在する批判性によって多くの問題点が明らかになるからである.ごく単純化したもの言いをするならば,「リージョナリズム」の批判性は,強者/弱者,主流/傍流,中心/周縁,進歩/伝統という相対的な力関係において,いずれも後者の立場を表明する際に機能すると言えよう.ここにいたって,「リージョナリズム」そのものは,けっして自律しえないものであること,統一的な不動の建築理念を掲げることは不可能であることが理解される.
[『20世紀建築研究』草稿の一部を抜粋]

古典主義とゴシック

古典建築、古典様式という名称(…)は古代ギリシアおよびローマの建築を指すが、それらに倣ってつくられたルネサンス時代以降の建築を指すこともある。後者の意味では、古典主義建築という名称もある。実際に言葉の歴史をさかのぼると、「古典classic」や「古典的classical」という言葉には、権威、階級区別のニュアンスが確認される。古代ローマ第六代の王セルウィウス・トゥリウスは、財産によってローマ市民を階級区分したとされる。そして、ラテン語のclassicusはそれぞれの階級ではなく、最上級、もっとも富裕な層を指すようになっていった。中世に一度その意味は失われてしまったが、16世紀にはイタリア人によって再び最上級、最高級という意味が回復され、フランス人やイギリス人もこれにしたがった。こうして、「classic=ファースト・クラス」というイメージが定着した。「classic=古いもの」という意味で使われだすのが17世紀のことであるが、ここで言う古さは、絶対的な規則、疑いようのない手本という意味であった。古代ローマ建築に倣ったルネサンス建築、バロック建築、あるいは、古典主義建築が全面的に支持されていた時代の話である。
ゴシックという名称も以上のエピソードに関係がある。古典建築が最高級のものとされたまさに同じ時代に、中世建築を指すためのゴシックという言葉が軽蔑的に用いられはじめたのである。「ゴシックGothic」という名称はローマ帝国を滅ぼした「ゴート族Goth」に由来しており、野蛮な民族の文化として見なされたのであった。まさしく古典主義的な構図が維持されたのは、西洋建築がイタリアから発信された時代のことである。
[『図説西洋建築史』草稿の一部を抜粋]

折衷主義とは?

過去のあらゆる建築が様式のヴァリエーションとして理解されるようになったのは19世紀のことだが、この新しい分類法は当時の西洋建築の方向性も大きく決定づけた。産業革命後の社会は人や物の移動が盛んになり、入手できる情報量も圧倒的に増えたから、多種多様な建築を地域および時代別に分類する「様式」という概念は、まさに近代という時代が求めていたものだった。過去に関する際限のない情報が手際よく分類された後に、様式選択という可能性が浮上したのである。建築家たちは、当時のさまざまな要求にしたがって自らの選択を正当化する必要があった。すなわち、様式選択には特定のイデオロギーが込められたのである。たとえば、ゴシック様式はキリスト教文化にもっともふさわしい表現であるとか、ルネサンス様式は理知的で高尚な表現であるとか、バロック様式は祝祭性に富む表現であるとか…。このように様式の復興は、歴史文化的ストックを掘り起こし、装飾とイメージのレベルで時代の要求に合致させる操作にほかならない。
(…)ある建築の機能や用途にもっともふさわしい様式を選び出す技能こそ、19世紀の建築家に求められた大きな役割であった。様式選択の基準は個々の建築家によって違いはあったが、大きな傾向としては公共建築に古典主義系統の様式、宗教建築に中世様式、庭園内のパヴィリオンや娯楽施設にはヨーロッパ以外のエキゾチックな様式が好んで使われた。場合によっては、一人の建築家が異なる様式のヴァリエーションを器用に使い分けることもあった。特定の様式にこだわらず、多種多様な様式に中立的に向き合うような態度を、とくに折衷主義と呼ぶ。
だが、建築家の創作意欲は建物に応じて様式を使い分けるだけでは飽きたらず、ひとつの建物のうちに異なる様式の細部や装飾を混ぜ合わせる試行へと向かう。そうした建築家は、複数の様式を混ぜ合わせることこそ他の時代にはない19世紀特有の創造行為と考えた。設計理論としての折衷主義はこうして生まれた。
[『建築学大百科』草稿の一部を抜粋]

モニュメントとは?

西洋建築のなかで重要度の高いものを示す際に使われる「モニュメント」という言葉は、もともと「何かを思いおこすための物」のことである。だから、モニュメント自体は恒久的な存在として考えられ、後世にまで当初と変わらないその役割を求められる。だが、現実にはそうはいかない。形ある物は壊れもする。そこで、素朴な疑問。西洋建築史で教わる数々の建築作品、それらは本当に数千年、数百年もの間建てられた時からまったく変わらずにいられたのか。多くの場合、答えはNOである。長い年月がたてば、どんなに頑丈な石造りでも風化は避けられない。ある時代には勝手に改造もされたであろう。あるいは、天災によって倒壊したかもしれない。そのたびに、人間は建築に手を入れてきたのであり、現在われわれが見る姿はその成れの果てにすぎない。とりわけ、20世紀にヨーロッパで起こった世界大戦は西洋建築に壊滅的なダメージを与えた。あまり語られることはないが、空襲によって倒壊し、戦後に何事もなかったかのように復原された西洋建築の傑作は多い。考えてみれば、ヨーロッパ全土が戦場となったのだから、歴史的・文化的に重要な建築であるというだけで無事でいられる保証はなかった。戦後になって、破壊された建築を完全なもとの姿に戻すことがヨーロッパの復興の証であり、その際、戦争という負の記憶は抹消するのが普通であった。もちろん、破壊されたままの姿を保存したモニュメントもあるが、きわめて稀なケースである。
[『図説西洋建築史』草稿の一部を抜粋]

後期ルネサンスの幻想的庭園

建築の出入口や窓を、われわれは開口部と呼ぶ。そんなの当たり前、と思われるかもしれない。だが、身体になぞらえて命名されたこの建築部位が、本当に“開口”に見えたとしたらきっと当たり前ではすまない。テーマ・パークや舞台セットなど、それらを現代商業主義の結果としてしまうと驚きは半減してしまうが、歴史を遡ってみると、われわれの常識を吹き飛ばすほどの奇妙な造形が存在する。たとえば、ボマルツォの「怪獣庭園」。ここにある「オーク」はなかなか強烈だ。「オーク」とは想像上の怪物で、ファンタジー世界における定番のキャラクターと言えばよいだろうか。J.R.R.トールキンの著名な小説『ホビットの冒険』や『指輪物語』にも登場しているくらいだ。作家によって設定は少しずつ異なるものの、たいていは悪役で、児童向けのお話では人間を食べてしまう怖いモンスターである。
車を使わずに、ボマルツォの怪物に会いに行くのはなかなかたいへんだ。ローマから電車で1時間ほど走って、バスに乗り換え、さらにまた乗り換え、最後は歩いてひたすら谷地を下る。下りきるとようやく視界が開け、緑豊かな渓谷の麓に、16世紀のファンタジー空間がひっそりとある。「オーク」は庭園内につくられた多くの奇想点景のひとつであり、その大きく開けられた口は大人がなんとか入れる(食べられる)くらいのスケールだった。口内は意外とこじんまりとした洞窟のような空間で、持ち上げられた舌?のごときベンチが一脚あるのみだ。口内でしばし一服したが、おもしろいのはやはり外観だ。
庭園は、ボマルツォの領主ピエル・フランチェスコ・オルシーニが妻ジュリア・ファルネーゼのために発注し、後期ルネサンスの建築家ピッロ・リゴーリオが設計したとされる。リゴーリオと言えば、斜面地に噴水技術を駆使したヴィラ・デステ庭園の方が名高いが、怪獣庭園はいわば現実を忘れさせてくれる物語世界の具現である。もともと「オーク」は、死界、地中、あるいは地獄といった異界の存在として語られてきた経緯がある。したがって、「オーク」の開口は、現世とあの世、地上と地中、現実と非現実を隔てる、いわば世界の境界にほかならない。
[『積算資料』2010年5月号草稿の一部を抜粋]

アダルベルト・リベラとマラパルテ邸

マラパルテ邸は、建築業界ではイタリア合理主義の建築家アダルベルト・リベラの傑作として知られる。1930年代後半の近代建築、モダニズムの美学を体現しながらも、地中海の大自然と見事な共存を果たした作品、というのが一般的な解説になろうか。映画好きな方であれば、ゴダールの『軽蔑』の1シーンに登場する別荘と言ったほうが、話が早いかもしれない。
(中略)
さて、この名作について昨年ちょっとしたスクープが報じられた。それによれば、作者は建築家アダルベルト・リベラではなく、施主であり文筆家のクルツィオ・マラパルテ自身であるとのこと。建築史に携わる者としては、聞き捨てならない内容だ。「マラパルテ:この別荘はわたしだけのもの―アダルベルト・リベラの役割を見直す書簡」と題された記事は、2009年7月10日の全国紙Corriere della Seraに載っている。ライターのステファノ・ブッチは、マラパルテ邸の作者がマラパルテ自身であり、実施においてはウベルト・ボネッティという建築家がサポートした事実を伝えている。以上はボネッティがマラパルテに宛てた書簡を根拠に論じられている。
ボネッティはトスカーナ出身の建築家とされるが、どちらかと言えば未来派の画家として知られる。そうであればこそ、マラパルテ邸の実施はボネッティの建築キャリアを大きくアピールする力を持つ。逆に、リベラの関与が全く否定されれば、これまでに近代建築史で解説され続けてきた“モダニズムの美学と自然環境の見事なコラボレーション”説が大いに揺さぶられる。ファシズム体制の最右翼であったリベラにとって、マラパルテ邸がキャリアに含まれていることは一種の清涼剤であり、それによって体制に奉じた建築家のイメージは、自然環境にまで配慮できたモダニストのイメージとして確実に和らぐのだ。
こうした見方は、イタリア建築のモダニズムがファシズムと共存関係にあったからこそ、一層リベラのキャリアにマラパルテ邸があってほしいという心理を誘発する。かくいう私も、マラパルテ邸にリベラの関与があってほしいと願う一人である。もっとも、その思いは体制やモダニズムの問題とは無関係に、たんに一人の作家がわかりやすい一貫性によって論じ切られてしまうこと、一人の作家に潜む神秘性が失われてしまうことに対する懸念にすぎないのだが。
[『地中海学会月報』332号草稿の一部を抜粋]