建築論のゆくえ

ソーシャル・メディアの登場により、公衆である「あなた」が建築にコミットするレールが敷かれていることは確実です。けれども、公衆のコミットが本当に建築の未来を良くしていくのかについては、実のところまだ誰も答えを持ち合わせていません。(…)建築家のすべてが楽観的な見通しを持っているとも思えません。建築家が公衆とのつながりを考えるということは、すなわち、自らの職能を問うことにも等しいからです。本気で建築家と公衆の関係を突き詰めていくと、なぜ建築家が必要なのか、建築家の専門性とは何か、というところまで行ってしまいます。
500年以上前、建築家は人文主義者として社会に気高く存在しました。当時の公衆が理解できなかった算術と幾何を駆使し、論理や修辞を用いて、自身が理想とする建築を語りました。建築家は建築の調和を語る際に、身の回りのすべて、人体から世界や宇宙の調和までを持ち出し(…)、建築はますます高尚な芸術学として権威を強めていきました。(…)その後、建築は、近現代の進展とともに少しずつ民主化されてきました。大局的に見れば、モダニズムの進展と民主化の進展はほぼシンクロしています(…)
建築が民主化されていくとともに、建築が建築家だけによって建てられるという認識も的外れになっていきました。かつて芸術という名にふさわしい建築は有力者が依頼する建造物に限られていましたが、今ではあらゆる人工環境が建築の守備範囲と言ってよいでしょう。(…)建築家が引き受ける仕事の幅も、建物以外に、都市、社会基盤、ランドスケープ、インスタレーション、グラフィック、サイン、コミュニティとますます広がるいっぽうです。
ソーシャル・ネットワークを追い風にするマーク・クシュナーの立ち回りは、たしかに公衆の存在をクローズアップするものですが、自らの立場、建築家の存在を否定するところまではいきません。(…)建築家は世界を見つめ未来について語ることのできる存在であり続けています。ただ、迅速な情報交換の中で、今の建築家は自身の専門的立場すら相対視しなければならない場面に遭遇することになりました。結果として、建築家の専門性は脅かされないまでも、公衆とのつながりを無視することはできなくなったのです。こうして、公衆と友好的な関係を築くための建築論が書かれるようになるのです。[『CASABELLA JAPAN』870号、草稿の一部を抜粋]

統合的建築家

20世紀建築の展開は、ある意味で芸術と工学の調停を巡る闘争の歴史として理解できる。実質的なレベルでは、既成の建築家が迫り来る大都市問題にどれだけ応じられるかという課題、それに向けた取り組みの数々に置き換えることができる。およそ100年前に建築家グスターヴォ・ジョヴァンノーニは、都市の現実に応じることのできる理想的な建築家養成機関の構想に際し、芸術かつ技術の職として体現される「統合的建築家」を提示したが、「統合」という言葉に象徴されるように、進みゆく学問の細分化と専門性の深化を前にして、それでも建築職には俯瞰的視野が必要であると訴えた。
 この統合性は、口で言うほど容易く達成されるものではない。事実、どれほどの建築家が理想都市を構想し、あるいは問題解決のための理論を案じては、現実的困難の前に挫折してきたことか。たしかに都市問題は一筋縄ではいかない。結果、ときには建築家による敗北宣言も出された。幸い(と言うべきか)、こうした敗北宣言はそれ自体が建築家個人によるひとつのパフォーマンスとして意味を帯びることがあっても、われわれに突きつけられた問題はなにひとつ終わらない。建築、都市、社会の問題は、なお、そこにあり続けている。
すなわち、「統合的建築家」は、いまだに、求めども達することなき悲願として、われわれの前途にあり続けている。建築の長い伝統を背負う成熟した文化圏であればあるほど、「統合」に向けての建築家の闘いは実に鮮烈なものであった。少なくとも私自身が、建築に惹かれた理由のひとつは、建築物のデザインや形態そのものより、建築家が取り組まねばならなかった困難の大きさ、そして、それでもなお果敢に挑戦し続けた真摯な姿勢を思えばこそ、であった。そうした建築家たちにとって、建築が芸術なのか、工学なのか、といった議論自体にもはや意味はないだろう。彼らは、ただひたすら社会が求める建築家という職能のあり方を問い続け、人間の生存に関するあらゆる知に対してアンテナを張り、しかも、あらゆる現実的困難を承知のうえで、社会、都市、建築のあり方に対して臆することなく雄弁であろうとしたのだ。世の東西を問わず、私は、そうした取り組みを続けていける人材の輩出元が、これから先もずっと建築学科であってほしいと思う…[『東京電機大学未来科学部建築学科五十年史』草稿の一部を抜粋]

シチリアのモンレアーレ大聖堂

グリエルモ二世は、この肥沃なコンカ・ドーロを見下ろす高台にモンレアーレ大聖堂を築いた。聖堂後陣の外観は、すでにパレルモ大聖堂で確認した幾何学的なアーチ模様の連続と交差を見てとることができる。一方で聖堂の内部は、壁の上部に旧約聖書、新約聖書の場面を描いた壮大なモザイクが展開している。総面積6340平米のモザイク画は圧巻と言うほかない。モザイク以外に、正面中央のブロンズ製の扉にも聖書の場面が丁寧に描き込まれている。扉は彫刻家ボナンノ・ピサーノによる1186年の作であり、場面のひとつにはイタリアの俗語が書き記されている。アカデミックなラテン語とは違う、当時の方言の一種であるが、こうした俗語が後のダンテの業績につながることを思うとき、中世における地域文化の懐の深さと広がりについてあらためて考えさせられる。
さて、身廊の円柱(とくに柱頭)をよく見ると、形状がわずかに異なっているものを見つけることができるが、この不揃いな円柱は実は古代建築から転用された材である。古代神殿をキリスト教聖堂に転用した例は、実際シチリアに数多く見られる。とはいえ、いったん隣接する修道院中庭に出てみると、円柱の数とヴァリエーションはもはや聖堂内部の比ではない。細身で小規模ではあるが、中庭を取り囲む回廊の円柱は228本を数える。柱頭には歳時記を思わせるような彫刻が施され、さらに柱身にはきらびやかなモザイクの細片が散りばめられており、一本ずつがそれぞれの個性とともにモンレアーレの地域性を表明するかのようである。
円柱の一本一本は実に多様な表現を纏いながらも、回廊全体としては落ち着きのある佇まいとなっている。回廊にせよ、大聖堂にせよ、建築の細部にはこだわりをもった装飾が散りばめられており、そこには必ずと言っていいほどなんらかの物語が潜んでいる。宗教的な教え、世俗的な遊び心、地域の伝統、建設や制作の努力…。おそらくこうした小さな物語の連鎖が、さらに広くパレルモ全体の建築や都市の物語につながってゆき、全体としてわれわれの目や心を楽しませてくれているのではないだろうか。ひとつの都市がいつまでも枯れることのない魅力を発し続けられる理由の一つは、そうした個々の物語が多種多様な文化に裏付けられているからであり、あらゆる時代の文化的蓄積のうえに成立しているからにほかならない。
[『星美学園短期大学 日伊総合研究所報』5号草稿の一部を抜粋]

恩師・鈴木博之

ここだけの話であるが、私が鈴木研究室に入ったのは建築の歴史をやろうと思ったからではなく、建築という分野でただ考え事がしたかったからである。今思えば、20代前半という時期は若さから来る内なる問題が自分のすべてであった。同時に、時代としてもちょっとした現代思想ブームがあったように思う。私が本郷に進学後、鈴木博之にはまったのは建築学科図書館でのことである。『建築の世紀末』は先生初の単著書であるが、私はこの序文に魅せられ、非常に短絡的ではあるがこの先生のもとで考え事をしようと思ったのである。16年前、私は思想家・鈴木博之に弟子入りしたのだった。
(...)修論を書き終えて、私は先生に先ほどとはまたちがった格言を授かっている。「泉鏡花を読め!」である。この言のこころは、あきらかに私の修論がガチガチの論文調で、お世辞にも麗しい文体ではなかったところに発している。だが、私は先生に相変わらず思想家としての姿を見ていたのであり、泉鏡花発言はちょっとしたカルチャー・ショックだった。私のなかで鈴木博之は、『建築の世紀末』でサルトルやヴァレリーを論じた思想家であり、『建築は兵士ではない』で現代建築を斬りまくっていた鋭敏な批評家であった。当然といえば当然なのだが、図書館で私がはまった鈴木博之はけっしてそのままの姿では私の前にいなかったのだろうと思う。すなわち、思想家・鈴木博之は、音楽評論家、文芸作家の顔も同時に持ち合わせており、とくに90年代においては、確実に東京論者としての役割を強めていた。
無知な私は、研究室に在籍してしばらくの間は、目の前の師を十数年前の著者として頑なに見ていたように思う。こうした先生の過去の足跡と、けっして歩みをとめることのない進行形の先生の距離を少しずつ埋めるように理解していったのが、私の研究室在籍期間だった。
[『UP』2010年1月号草稿の一部を抜粋]

リチャードソンの中世趣味、そして日本趣味

 リチャードソンの中世趣味が、東洋趣味や日本趣味、言うなれば当時アメリカのエキゾチシズムと同列に扱われるケースがあった。「ストーンハースト」のペイン邸はその最たる例だ。施主は、アメリカ独立宣言署名者の一人、ロバート・トリート・ペインの孫。姓名がまったく同じなのでたいへん紛らわしいが、孫のペインによって、ボストン郊外ウォルサムにつくられた別荘が、「ストーンハースト」のはじまりである。「ストーンハースト」とは、ペイン自身がこの地につけた名称で、“石の森”という意味である。郊外の緑豊かな丘上に、富豪のペインはわざわざ石の楽園をつくらせたのであった。
 最初、ペインの別荘はフランス風マンサード屋根をつけた端正でクラシックな様式の住宅だったが、これをリチャードソンに依頼し、自然の積極的な取り込み、ごつい野面石の強調に方向転換したのである。ファサードの妻面上部は、ニューイングランド地方の建築を特徴づけるシングル(こけら板)葺きとなっているが、やはり眼を引くのが南側のテラス、および、妻面下部を覆う野面石である。トリニティ教会と比べても、こちらのほうが断然素朴で田舎っぽい風情を持っている(...)。
 ただ、日本人にとってみれば、「ストーンハースト」のペイン邸は内部空間にこそ見るべき価値がある。一階のホール天井を見ると、短冊状に切り分けられた内側の全面に金箔が施されている。これを金箔張りの格天井の再現と言うと、多少大げさに聞こえるかもしれないが、あきらかに日本趣味をアレンジしたことはわかる。また、ホールの壁面に目をやれば、日本の家紋が装飾として写し取られ、やはり金色に輝いている。内部を案内してくれた研究員の方によれば、こうした日本趣味は世界中を旅行したペイン夫人が要望し実現したのではないかということであった。
[『経調レビュー』2012年3月号草稿の一部を抜粋]

オベリスクとヨーロッパ都市

ローマの街を歩いていると、大きな広場の中心に垂直のランドマークが建てられていることに気づく。(…)もともとエジプト神殿に付随していたオベリスクの大半が、現在、なぜ欧米の各都市に散在しているのだろうか。その象徴的な形の魅力か、長大な石材の価値か、あるいは、古代エジプトの持つ神秘性か、ときの権力者たちはオベリスクを戦利品として自国に持ち帰るようになった。その歴史はローマ時代にまで遡る。実際、現存する古代のオベリスクはローマに一番多く、13本ある。そのほとんどが、帝政期にもたらされたものである。だが、必ずしも広場の中核として据えられていたわけではない。オベリスクが都市広場の中核を担うようになったのは、16世紀後半からである。教皇シクトゥス5世は、カトリックの総本山ローマの教権を盤石なものとするため、ローマの都市再建を図ったのである。
この経緯で主要な広場が整備され、現在われわれが見るようにオベリスクが再設置されたのである。その最初のプロジェクトが、サン・ピエトロ広場のオベリスクだった。建築家ドメニコ・フォンターナがプロジェクトの任に当たり、1586年に据え付けが完了した。シクトゥス5世の命を受け、フォンターナがローマに再配置したオベリスクは、他にもポポロ広場、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂といったローマの要所を占める。以降、歴代の教皇の命によってオベリスクが都市景観にアクセントを添えるように置かれた。ナヴォーナ広場に建つオベリスクは、バロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによる泉水の中央にそびえている。古代エジプトの象徴であったオベリスクは、まったく異なる文脈のなかで、キリスト教都市ローマを彩ったのである(…)
[『積算資料』2010年7月号草稿の一部を抜粋]

フォーリング・ウォーター

(…)20世紀にはいると、ただ眺める人工滝ではなく、住環境としての滝というコンセプトが登場する。滝に近接する別荘という主題で、落水荘(フォーリング・ウォーター)を語らないわけにはいかないだろう。清流に覆いかぶさるコンクリート・スラブの積層は、近代建築を学んだ者にとってあまりにも有名である。同時に、その多くが行ってみたいと思いながら、なかなか行くことのできない作品でもある。なにしろ交通の便がないのだから。かくいう私も、落水荘詣でを果たせたのはついこの前のことだ。別荘はピッツバーグより車で1時間以上走った渓谷の中にあり、実際、周りには自然以外なにもない。ひたすら自然を満喫できる。季節が良いと最高だ。逆に、冬季は雪も深く、さらに交通の便が悪くなることだろう(現在、冬季は閉館となっている)。
アメリカ人が好きな建築作品第一位にランクされる落水荘は、当然ながらアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトによる中期の傑作である。デパート経営者の富豪、エドガー・カウフマンの別荘で、夏期を中心とした一年のうちのほんの一時を過ごすためにつくられた住宅である。究極に不便なのであり、だからこそ究極に自然と向き合うことができる。これが究極の贅沢というものなのだろう。
落水荘は想像以上に大きな別荘で、また、スラブの張り出しも想像以上にダイナミックであった。必然的に構造強度については竣工時から問題視され、オーナーがカウフマンから西ペンシルベニア自然環境保護団体に移った後も長らく検討が重ねられ、2002年にようやく構造補強工事を終えたところである。
あまり写真で目にしたことがなかったせいで興味深く思えたのが、別荘の滝側ではなく山側の部分である。こちらがエントランス・アプローチであり、そこには無骨なコンクリート梁が人の頭上ほどの高さに何本も走り、反対の岩壁に固定させられている(…)
[『積算資料』2010年6月号草稿の一部を抜粋]