シチリアのモンレアーレ大聖堂

グリエルモ二世は、この肥沃なコンカ・ドーロを見下ろす高台にモンレアーレ大聖堂を築いた。聖堂後陣の外観は、すでにパレルモ大聖堂で確認した幾何学的なアーチ模様の連続と交差を見てとることができる。一方で聖堂の内部は、壁の上部に旧約聖書、新約聖書の場面を描いた壮大なモザイクが展開している。総面積6340平米のモザイク画は圧巻と言うほかない。モザイク以外に、正面中央のブロンズ製の扉にも聖書の場面が丁寧に描き込まれている。扉は彫刻家ボナンノ・ピサーノによる1186年の作であり、場面のひとつにはイタリアの俗語が書き記されている。アカデミックなラテン語とは違う、当時の方言の一種であるが、こうした俗語が後のダンテの業績につながることを思うとき、中世における地域文化の懐の深さと広がりについてあらためて考えさせられる。
さて、身廊の円柱(とくに柱頭)をよく見ると、形状がわずかに異なっているものを見つけることができるが、この不揃いな円柱は実は古代建築から転用された材である。古代神殿をキリスト教聖堂に転用した例は、実際シチリアに数多く見られる。とはいえ、いったん隣接する修道院中庭に出てみると、円柱の数とヴァリエーションはもはや聖堂内部の比ではない。細身で小規模ではあるが、中庭を取り囲む回廊の円柱は228本を数える。柱頭には歳時記を思わせるような彫刻が施され、さらに柱身にはきらびやかなモザイクの細片が散りばめられており、一本ずつがそれぞれの個性とともにモンレアーレの地域性を表明するかのようである。
円柱の一本一本は実に多様な表現を纏いながらも、回廊全体としては落ち着きのある佇まいとなっている。回廊にせよ、大聖堂にせよ、建築の細部にはこだわりをもった装飾が散りばめられており、そこには必ずと言っていいほどなんらかの物語が潜んでいる。宗教的な教え、世俗的な遊び心、地域の伝統、建設や制作の努力…。おそらくこうした小さな物語の連鎖が、さらに広くパレルモ全体の建築や都市の物語につながってゆき、全体としてわれわれの目や心を楽しませてくれているのではないだろうか。ひとつの都市がいつまでも枯れることのない魅力を発し続けられる理由の一つは、そうした個々の物語が多種多様な文化に裏付けられているからであり、あらゆる時代の文化的蓄積のうえに成立しているからにほかならない。
[『星美学園短期大学 日伊総合研究所報』5号草稿の一部を抜粋]

恩師・鈴木博之

ここだけの話であるが、私が鈴木研究室に入ったのは建築の歴史をやろうと思ったからではなく、建築という分野でただ考え事がしたかったからである。今思えば、20代前半という時期は若さから来る内なる問題が自分のすべてであった。同時に、時代としてもちょっとした現代思想ブームがあったように思う。私が本郷に進学後、鈴木博之にはまったのは建築学科図書館でのことである。『建築の世紀末』は先生初の単著書であるが、私はこの序文に魅せられ、非常に短絡的ではあるがこの先生のもとで考え事をしようと思ったのである。16年前、私は思想家・鈴木博之に弟子入りしたのだった。
(...)修論を書き終えて、私は先生に先ほどとはまたちがった格言を授かっている。「泉鏡花を読め!」である。この言のこころは、あきらかに私の修論がガチガチの論文調で、お世辞にも麗しい文体ではなかったところに発している。だが、私は先生に相変わらず思想家としての姿を見ていたのであり、泉鏡花発言はちょっとしたカルチャー・ショックだった。私のなかで鈴木博之は、『建築の世紀末』でサルトルやヴァレリーを論じた思想家であり、『建築は兵士ではない』で現代建築を斬りまくっていた鋭敏な批評家であった。当然といえば当然なのだが、図書館で私がはまった鈴木博之はけっしてそのままの姿では私の前にいなかったのだろうと思う。すなわち、思想家・鈴木博之は、音楽評論家、文芸作家の顔も同時に持ち合わせており、とくに90年代においては、確実に東京論者としての役割を強めていた。
無知な私は、研究室に在籍してしばらくの間は、目の前の師を十数年前の著者として頑なに見ていたように思う。こうした先生の過去の足跡と、けっして歩みをとめることのない進行形の先生の距離を少しずつ埋めるように理解していったのが、私の研究室在籍期間だった。
[『UP』2010年1月号草稿の一部を抜粋]

リチャードソンの中世趣味、そして日本趣味

 リチャードソンの中世趣味が、東洋趣味や日本趣味、言うなれば当時アメリカのエキゾチシズムと同列に扱われるケースがあった。「ストーンハースト」のペイン邸はその最たる例だ。施主は、アメリカ独立宣言署名者の一人、ロバート・トリート・ペインの孫。姓名がまったく同じなのでたいへん紛らわしいが、孫のペインによって、ボストン郊外ウォルサムにつくられた別荘が、「ストーンハースト」のはじまりである。「ストーンハースト」とは、ペイン自身がこの地につけた名称で、“石の森”という意味である。郊外の緑豊かな丘上に、富豪のペインはわざわざ石の楽園をつくらせたのであった。
 最初、ペインの別荘はフランス風マンサード屋根をつけた端正でクラシックな様式の住宅だったが、これをリチャードソンに依頼し、自然の積極的な取り込み、ごつい野面石の強調に方向転換したのである。ファサードの妻面上部は、ニューイングランド地方の建築を特徴づけるシングル(こけら板)葺きとなっているが、やはり眼を引くのが南側のテラス、および、妻面下部を覆う野面石である。トリニティ教会と比べても、こちらのほうが断然素朴で田舎っぽい風情を持っている(...)。
 ただ、日本人にとってみれば、「ストーンハースト」のペイン邸は内部空間にこそ見るべき価値がある。一階のホール天井を見ると、短冊状に切り分けられた内側の全面に金箔が施されている。これを金箔張りの格天井の再現と言うと、多少大げさに聞こえるかもしれないが、あきらかに日本趣味をアレンジしたことはわかる。また、ホールの壁面に目をやれば、日本の家紋が装飾として写し取られ、やはり金色に輝いている。内部を案内してくれた研究員の方によれば、こうした日本趣味は世界中を旅行したペイン夫人が要望し実現したのではないかということであった。
[『経調レビュー』2012年3月号草稿の一部を抜粋]